2010年11月27日土曜日

トーキングオブジェクト



かつて、ネイティブアメリカンが会合のときに使っていたのが、トーキングスティックと呼ばれる棒のことです。これを持っている人しか発言権がないルールになっています。


ダイアログの場でも、使われる事があると聞いていました。

今日参加した場作りを考える会で、トーキングスティックとおなじ役割をするトーキングオブジェクトが出てきました。今回、初めてこういうものを使っての対話の場だったので、楽しみにしていました。


始まってみると、なんだかとても違和感があります。まず、対話になっていない。自分の考えていた事をダウンロードするだけで、そこから対話、ダイアローグへ移ることが難しかった。



初めは、なれていないからなのかと思っていたのですが、今回の対話の場はワールドカフェスタイルということで、テーブルを代わって話し始めても、それはあまり変わりませんでした。



あまりにも違和感があったので、テーブルのみんなに、とってもコントロールされている感じがあって、話をすることに強制力を感じる、対話になっていないということを率直に話をしたら、ほかのメンバーも同じように感じていました。その思いを共有した後は、少し呪縛から逃れたかのようにいつもの対話に近い雰囲気で話す事ができました。



終わった後も、その疑問は残り続け、トーキングオブジェクトと自分の相性、自らの感性の問題なのかとツイッターでつぶやいてみると、私達の組織の変革をサポートしてくださっている方から、

「トーキングオブジェクトは、それを隣の方から手渡された瞬間、話そうと用意していた言葉が消え、その瞬間の想いが口から流れ出る…。その想いはサークル全体の集合的意識の流れから生まれ出るもので、意識の流れを信じてファシリテーションしていないと生成しません」

といわれました。



今日の場は、茶道の女将と、対話の場をいつも作っているファシリテーターの方の2名のゲストをきっかけに対話する場でした。初めは参加者とともにインタラクティブに進めようと思いますとファシリテーターの方が言っていましたが、女将と参加者のやりとりの1回目が少しかみ合っていなかったことがあって、それ以降、ファシリテーターの方がすぐに参加者とのインタラクションを切ってしまいました。



一体になりかけた場が、ゲスト2人の掛け合いとそれを別の場所からみているその他大勢という感じになりました。


そのままインタラクティブにやっていると、確かに発散したり、噛み合ないままの場になった可能性もあったと思いますが、ファシリテーターが場に参加している人たちのよい場をつくりたいというBeを信じる事ができず、自らのテクニックで当たり障りのない場にコントロールしたことが、トーキングオブジェクトのコントロール感につながっているのかといまになって振り返ってみるとそう思います。



かみ合っていなかった話の中に、熟達者は自分がオートでやっていることを言葉にすることが難しいとか、実は結構気づきがあってよかったので、あのまま続きをやっていたら、違うよい場になっていたのだろうなという予感はあります。


でもまあ、こういった場もなかなか体験できないので、自分にとってはよい経験になりました。



では、私はどうするのか。
お茶は心で楽しむもの。テクニックではないというのが今日改めて心に刻んだ一番の学びです。

まずは、三國連太郎主演の映画、利休をもう一度初めからみようかな。

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