2010年12月8日水曜日

流しの先生

流しの演歌歌手という人達がいます。場所は不定、宿場町の呑み屋を転々として、その場のお客様のリクエストに答えて、演歌を歌います。あゆとおとうさんのCMのアレです。


それから発想して、長岡先生が流しの先生をやってます。


流しの先生とは、場所も毎回違っていて講義の内容もその場で生徒からもらいます。生徒も毎回変わります。


テーマは大人の学び論。今回が二回目です。墨東大学という墨東エリア全体をキャンパスに見たてたところあたりで講義が行われます。


前回は喫茶店だったようですが、今回はキラキラ橘商店街の一画でした。


街ゆく人達から見られて微妙な感じがなんとも怪しくて良かったです。


講義の内容はフィールドワークについて。受講生7人のうち、4人がフィールドワークをしている大学生だったので。



初めは概念と事象について。発見とは、概念に基づいて事象を見つける事ではない。それは単なる検証。発見とは、事象から概念を見つけること。


科学者のアプローチと同じだと感じました。帰納法の考え方ですね。だからこそ、真実は現場で見つかるのではなく、机の前で見つかるということです。


普通上のフィールドワークでは、事実という過去から現在の事象を扱いますが、未来の事象から概念を見いだすことも行われているようです。



もう一つは、フィールドワーカーの学びについてでした。観察の対象者、フィールドワーカー、読者の3者の関係において、フィールドワーカーやエスノグラファーは対象者を観察することで、学習して行くということです。対象者の中に入り込んで、自らを変容させることにより、観察が行われます。


自らが変容するのでそこには学びがあります。自らが変容しないと、対象者からいろいろなことを観察できないのです。



また、そこで観察されたことを読者に翻訳します。


読者に翻訳する過程でも、自らを変容させることの必要があるので、フィールドワーカーには学びがおこります。



ここでふとある疑問が頭の中におこりました。元々、対象者を読者が知るということを目的にしていたと思うのですが、翻訳した瞬間に、それは本当に知ったことになるのでしょうか?読者が変容することが真実を知るということには必要な気がします。



でも、フィールドワーカーが学習したという事実でいいじゃないかという考え方もあるというのを聞きました。
う〜ん、そう来たかという感じです。それをフィールドワークと位置付けるというのはとてもアリだと思いました。



8時には商店街のお店が閉まってきて、暗くなってきたので授業はおしまい。



帰りに商店街の入り口近くにある雰囲気のある居酒屋で先生と姫と3人で軽く飲んで帰りました。


芋焼酎お湯割おいしかった。しかも2千円弱。安い!

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