2011年1月26日水曜日

ワールドカフェばかり

最近、よく目に付くのがワールドカフェという話し合いの手法を使った対話の場です。まあ、自分でも関わりのあることなので、特に目についているのだと思いますが、こうやっていろんなところで広まってくると、なぜワールドカフェばかりがそんなに広まっているのだろうと不思議になります。


私達が社内でワールドカフェを企画し始めた一年ちょっと前を振り返ると、ごく一部の人達だけがワールドカフェという言葉を知っていて、少しづつ広まっているという感じでした。なので、ワールドカフェがどれくらい全国で行われているかおおよそ把握できるレベルでもありました。


ワールドカフェ自体は、それほど準備を必要としません。参加した人も、手ぶらでふらっとやってきて、対話を楽しんで、それぞれの気付きをもって返ります。


自分達もワールドカフェの場を作ったりしているので、もちろんそれはそれでいいのですが、これだけ広まってくると、本当にそれだけでいいの?と考えてしまいます。


ワールドカフェに出た後に、感想を聞くと、「あー楽しかったです。また来ます」という声が圧倒的に多いです。参加される人達は、どういうことを目的に参加しているのでしょうか。


ワールドカフェの当初の目的には、集合的な知を生み出して、新しい未来を創造するというのがあったかと思います。もちろんそれは、1回2回のワールドカフェで生み出されるものではないのかもしれません。が、本当にそれが生み出されつつあるのか、それとも普段の仕事から一歩離れて、関係者がいないところで息抜きをしているだけなのか(もっともこれがだめだと言うつもりはありませんが)よく見つめる必要があると思っています。


ワールドカフェ以外に、ポジティブアプローチのAIやOSTなど本当にパワフルな組織変革の手法と言うのがいくつかあるのですが、ワールドカフェがなぜこれだけ受け入れられ、他の手法がそれほど広まっていないというのは何故なのか?


もう少し、実践者の私は実践を繰り返しながら、観察者の私は様子を見てみることにします。

0 件のコメント:

コメントを投稿